2020年3月2日(月)
・「僧阿念」について、私なりの考えが少し進んだので紹介します。

前にも書いたと思いますが、僧阿念は
、法名を阿念と号した、当時の力を持った武士というのが私の考えで、一族の極楽往生を祈願して阿弥陀三尊を造像したと思われます。
延應元年の時代に、そういう人物がいれば、彼が僧阿念である可能性があります。

インターネットで調べたら、「東鄕町史」に「三朝地頭信定」という人物が記されています。
彼の法名は阿念なので、随分前から有力候補と考えてきたのですが、彼の生没年が分からなかったので、それ以上の論は進められませんでした。
ところが今日、別の文献に「信定の子の宣政が1272年に鎌倉で討ち死にしている。」との記述を見つけました。
延應元年(1239年:造像年)の33年後のことなので、時代は合っていると考えられます。
同じ時代に、法名を阿念と号す、例えば地頭などの有力武士が他にも存在した可能性は低いだろうから、ここに絞って調べるのは意味あること、と言うのが今日の結論です。






 僧阿念の花押→







2020年3月2日(月)
・六波羅蜜寺の空也上人像の体内に「僧康勝」の墨書があることを知って、「僧阿念」も仏師の可能性があると思ったことがありますが、それは撤回します。
本尊に書かれた墨書は「延應元年十月十七日 僧阿念(花押) 往生極楽」です。
先ず思うのは、もし僧阿念が仏師だとしたら、日付は書かないだろうと言うことです。
お像製作には数ヶ月かかるだろうから、仏師が特定の日付を選んで書くのは考えにくいからです。
だからこの墨書は、(施主である)僧阿念が、往生極楽を祈願して書いたもので、その日付が延應元年十月十七日と考えるのが自然だと思うのです。
(施主である)の括弧付けは、僧阿念は造像時の施主でなく、既に出来ていた本尊を後に手に入れ解体修理した際に墨書した可能性があるので、付けたものです。
そう考えるならば、本尊の制作年は、延應元年より前に遡ります。

どうしてこのようなことを書いたかと言えば、今はいろいろな可能性を考えておいた方がよいと思っているからです。
2020年3月2日(月)
・今日、芝崎氏から写真が送られてきました。
右は、解体した観音菩薩像の首下に書かれた墨書で、脇士二体から見つかった墨書はこれだけです。
おそらく、花押のようなものだと思いますが、他に類似のものがあれば仏師を特定する手がかりになると思われます。
今はそうでなくとも、100年先に見つかることもあり得るので、この記号は蓮台寺にロマンを残してくれたことになります。
2020年3月2日(月)
・右は、今日芝崎氏から送られてきた写真で、
勢至菩薩像の解体写真です。
墨書きは見つからず、頭部内もファイバースコープで調べたけれど、何も書かれていなかったそうです。
観音菩薩像の解体はこれからですが、同様だと思います。

したがって、今度の解体修理で本尊のルーツを知る手がかりは
「延應元年十月十七日 僧阿念 往生極楽」
の墨書だけですが、これにより、本尊は蓮台寺開山以前に造像されたことが明確になったことは、当初の私の目的からすれば、想像以上の収穫でした。
あとは、芝崎氏と神野氏の話し合いで、どのように修復されるかを楽しみに待ちたいと思います。
2020年3月2日(月)
・本尊の造像が延應元年だとすると、何故58年という短い時間で蓮台寺に安置されたかを考えてみました。
次が、昨晩私が得た仮説です。

「本像は法名を阿念と号する武士の頭領が、一族の極楽往生を祈願して造像し、館に安置したが、半世紀後に一族に維持できなくなる事情が生じ、遊行で縁を結んだ真教上人に託すことになり、蓮台寺にご本尊として安置された。」

その頃は北条政権が成立していたけれど、完全統治ではなく、各地で小さな武力衝突が起こる不安定な世だったので、上のような仮説は十分に成り立つと考えました。
この説に沿って、真教上人の遊行記録などを調べれば、何かが分かるかもしれません。                              戻る
2020年3月2日(月)
・本尊造像の施主である「僧阿念」の人物像について、次の仮説を思いつきました。

僧阿念の僧は、「僧としての」という意味で、この人物は本尊を個人的に造ることが可能な当時の有力者で、出家した法名が阿念である。

時代を少し経るけれど、戦国時代には武田晴信が39才で出家し信玄と号し、上杉景虎が27才で謙信と号しながらも武将として活動した例もあるので、法名を阿念と号した有力者が延應元年の時期に存在したとしてもおかしくないと考えました。
インターネットで調べたら、それに当てはまる人物が見つかったので、以後の検証は、芝崎氏と神野氏に任せることにします。     戻る
2020年3月2日(月)
・ご本尊の下部には直径4cmく

らいの穴が空いています。

これがあったので、竹筒の存在

が分かったし、ファイバースコー

プで墨書も見つかりました。

でも、何のために穴を開けたの

かが、ずっと疑問でしたが、昨晩

、1つの考えを思いつきました。

それは、原木を垂直に立てて彫

るために開けられた穴ではない

かということです。

そうだとすると、これは特殊な技

法なはずなので、他にも同様の

穴が空いている阿弥陀如来像が

あれば、同系統の仏師によるも

のと考えられ、ご本尊のルーツを

知る上で重要なポイントになると

思います。

ただ、これはあくまでも、素人の

仮説です。
・墨書きの内容は次の通りであることが分かりました。

○前面墨書き
      「延應元年十月十八日 僧阿念(?)
               往生極楽          」
○後面墨書き
 「此尊像者安阿弥御真作無疑慮者也 奉刻彫時代者 施主僧阿念(?)  
                                         延應元年
    遊行第二祖他阿上人真教大和尚當山草創之節奉安置舊記有之
            末弟當山廿一世一察法阿上人恵水奉再興者也
            元禄六癸酉年八月十二日              」   
後面墨書きの最初に
 「この尊像は安阿弥御真作であること疑いなし」と言う意味が書かれていますが、これは間違いです。
安阿弥とは、おそらく快慶のことで、インターネットで調べたら、快慶は延應元年の12年以上前に亡くなっているとあるからです。
いつの間にか、この頃の「快慶作」という偽情報がエスカレートして、明治時代には「恵心僧都作」に化けてしまったようです。
2020年3月2日(月)
・ご本尊を解体した写真を掲載します。
左が前面、右が後面です。
画素数が100kバイトと小さいので、文字が不鮮明ですが、公開時には10倍の解像度の写真をお見せする予定です。

2020年3月2日(月)
・20:27、芝崎氏から電話がありました。
とうとう今日、ご本尊を割ることが出来、竹筒を取り出したそうです。
興味深いのは、竹筒に入っている薄板に書かれた内容です。
「安楽院」、「寶金剛寺」という近隣の他宗寺院の名が書かれているそうです。
これから全てが判読されれば、当時の寺院関係について、新事実が分かるかもしれません。