2021年10月18日(月)
・今日火葬場で、ご本尊のことが話題になり、「僧阿念」について調べてもらうことになりました。
その基礎資料として知ってもらうために再度掲載することにしました。
2019年8月21日(水)
・「僧阿念」について、私なりの考えが少し進んだので紹介します。

前にも書いたと思いますが、僧阿念は、法名を阿念と号した、当時の力を持った武士というのが私の考えで、一族の極楽往生を祈願して阿弥陀三尊を造像したと思われます。
延應元年の時代に、そういう人物がいれば、彼が僧阿念である可能性があります。

インターネットで調べたら、「東鄕町史」に「三朝地頭信定」という人物が記されています。
彼の法名は阿念なので、随分前から有力候補と考えてきたのですが、彼の生没年が分からなかったので、それ以上の論は進められませんでした。
ところが今日、別の文献に「信定の子の宣政が1272年に鎌倉で討ち死にしている。」との記述を見つけました。
延應元年(1239年:造像年)の33年後のことなので、時代は合っていると考えられます。
同じ時代に、法名を阿念と号す、例えば地頭などの有力武士が他にも存在した可能性は低いだろうから、ここに絞って調べるのは意味あること、と言うのが今日の結論です。




 僧阿念の花押→
2019年2月17日(日)
・六波羅蜜寺の空也上人像の体内に「僧康勝」の墨書があることを知って、「僧阿念」も仏師の可能性があると思ったことがありますが、それは撤回します。
本尊に書かれた墨書は「延應元年十月十七日 僧阿念(花押) 往生極楽」です。
先ず思うのは、もし僧阿念が仏師だとしたら、日付は書かないだろうと言うことです。
お像製作には数ヶ月かかるだろうから、仏師が特定の日付を選んで書くのは考えにくいからです。
だからこの墨書は、(施主である)僧阿念が、往生極楽を祈願して書いたもので、その日付が延應元年十月十七日と考えるのが自然だと思うのです。
(施主である)の括弧付けは、僧阿念は造像時の施主でなく、既に出来ていた本尊を後に手に入れ解体修理した際に墨書した可能性があるので、付けたものです。
そう考えるならば、本尊の制作年は、延應元年より前に遡ります。

どうしてこのようなことを書いたかと言えば、今はいろいろな可能性を考えておいた方がよいと思っているからです。
2019年1月8日(火)
・今日、芝崎氏から写真が送られてきました。
右は、解体した観音菩薩像の首下に書かれた墨書で、脇士二体から見つかった墨書はこれだけです。
おそらく、花押のようなものだと思いますが、他に類似のものがあれば仏師を特定する手がかりになると思われます。
今はそうでなくとも、100年先に見つかることもあり得るので、この記号は蓮台寺にロマンを残してくれたことになります。
2018年12月29日(土)
・右は、今日芝崎氏から送られてきた写真で、
勢至菩薩像の解体写真です。
墨書きは見つからず、頭部内もファイバースコープで調べたけれど、何も書かれていなかったそうです。
観音菩薩像の解体はこれからですが、同様だと思います。

したがって、今度の解体修理で本尊のルーツを知る手がかりは
「延應元年十月十七日 僧阿念 往生極楽」
の墨書だけですが、これにより、本尊は蓮台寺開山以前に造像されたことが明確になったことは、当初の私の目的からすれば、想像以上の収穫でした。
あとは、芝崎氏と神野氏の話し合いで、どのように修復されるかを楽しみに待ちたいと思います。
2018年12月11日(火)
・本尊の造像が延應元年だとすると、
何故58年という短い時間で蓮台寺に安置されたかを考えてみました。
次が、昨晩私が得た仮説です。

「本像は法名を阿念と号する武士の頭領が、一族の極楽往生を祈願して造像し、館に安置したが、半世紀後に一族に維持できなくなる事情が生じ、遊行で縁を結んだ真教上人に託すことになり、蓮台寺にご本尊として安置された。」

その頃は北条政権が成立していたけれど、完全統治ではなく、各地で小さな武力衝突が起こる不安定な世だったので、上のような仮説は十分に成り立つと考えました。
この説に沿って、真教上人の遊行記録などを調べれば、何かが分かるかもしれません。

  
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2018年12月10日(月)
・本尊造像の施主である「僧阿念」の人物像について、次の仮説を思いつきました。

僧阿念の僧は、「僧としての」という意味で、この人物は本尊を個人的に造ることが可能な当時の有力者で、出家した法名が阿念である。

時代を少し経るけれど、戦国時代には武田晴信が39才で出家し信玄と号し、上杉景虎が27才で謙信と号しながらも武将として活動した例もあるので、法名を阿念と号した有力者が延應元年の時期に存在したとしてもおかしくないと考えました。
インターネットで調べたら、それに当てはまる人物が見つかったので、以後の検証は、芝崎氏と神野氏に任せることにします。     戻る
2018年11月28日(水)
・ご本尊の下部には直径4cmくらいの穴が空いています。
これがあったので、竹筒の存在が分かったし、ファイバースコープで墨書も見つかりました。
でも、何のために穴を開けたのかが、ずっと疑問でしたが、昨晩、1つの考えを思いつきました。
それは、原木を垂直に立てて彫るために開けられた穴ではないかということです。
そうだとすると、これは特殊な技法なはずなので、他にも同様の穴が空いている阿弥陀如来像があれば、同系統の仏師によるものと考えられ、ご本尊のルーツを知る上で重要なポイントになると思います。
ただ、これはあくまでも、素人の仮説です。
2018年11月14日(水)
・墨書きの内容は次の通りであることが分かりました。

○前面墨書き
 「延應元年十月十八日 
         僧阿念
        往生極楽 」
○後面墨書き
 「此尊像者安阿弥御真作
          無疑慮者也 
  奉刻彫時代者 施主僧阿念  
                                         延應元年遊行第二祖
 他阿上人真教大和尚
 當山草創之節奉安置
 舊記有之
 末弟當山廿一世
 一察法阿上人恵水奉再興者也
  元禄六癸酉年八月十二日」   
後面墨書きの最初に
 「この尊像は安阿弥御真作であること疑いなし」と言う意味が書かれていますが、これは間違いです。
安阿弥とは、おそらく快慶のことで、インターネットで調べたら、快慶は延應元年の12年以上前に亡くなっているとあるからです。
いつの間にか、この頃の「快慶作」という偽情報がエスカレートして、明治時代には「恵心僧都作」に化けてしまったようです。
2018年11月12日(月)
・ご本尊を解体した写真を掲載します。
左が前面、右が後面です。
画素数が100kバイトと小さいので、文字が不鮮明ですが、公開時には10倍の解像度の写真をお見せする予定です。




 
2018年11月8日(木)
・20:27、芝崎氏から電話がありました。
とうとう今日、ご本尊を割ることが出来、竹筒を取り出したそうです。
興味深いのは、竹筒に入っている薄板に書かれた内容です。
「安楽院」、「寶金剛寺」という近隣の他宗寺院の名が書かれているそうです。
これから全てが判読されれば、当時の寺院関係について、新事実が分かるかもしれません。
2018年11月2日(金)
   

・上は、今日送られてきた画像です。
ご本尊は、両肩が外されました。
当初、芝崎氏は肩の部分には穴が空いていて、ここから竹筒を取り出せると考えていましたが、右の写真のように塞がっていたので、前後に外さなければ出ないことが分かりました。
だから、楽しみはもうしばらくお預けです。
2018年9月25日(火)
・下記は、今日現在ファイバースコープで確認できた
ご本尊体内の文字です。
県博関係者が注目しているのは、前面材に墨書された
「延應元年」(1239年)です。
これは造像された年を表すもので、蓮台寺開山(1297年)の
58年前と分かったことが重要なのです。
□は現時点では読み取れない文字で、解体した後に
判読されることを期待しています。

************************************
(前面材墨書 造像時のもの)

     延應元年□□□□□□□□□
              往生極楽

************************************
(背面材墨書 修復時のもの)

   此尊像者安阿弥□□□□□□也
   □刻彫時代  施主僧阿□□
             延應元年

遊行二祖他阿上人真教大和尚
       當山草創之節奉安置□記有之
未第當山廿一世□□法阿上人恵水奉再興者也

   元禄六癸酉年八月十□日


***************************************
(竹筒外側の墨書 修復時のもの)
 
  元禄六癸酉年八月上旬 廿一代□□□
2018年9月24日(月)
・昨日、ご本尊内部を更に調べた結果が送られてきました。
それによって確定したことを次に記します。

1.このお像は延応元年(1239年)に造られた。
  施主は僧阿□□ (□の部分は不明)。
2.その後、元禄6年(1693年)に修復された。
  体内の竹筒はそのときに新調された。
3.竹筒の中には、薄く紙状に加工された木片が10数枚入っている。
  この一部と思われるものが竹筒から出ていて視認できるがこれに
  は文字が書かれている。

制作年月日と修復年月日が明確になったことで、ご本尊のルーツを知りたいという修復目的の1つは達せられました。
残った興味は竹筒の中身ですが、これは解体すればはっきりしますが、今から推理すれば、「阿弥陀経」が書かれているのだと思います。
お経以外の事務的な情報をわざわざご本尊の体内に閉じ込めておくのは考えにくいし、体内に納めるには浄土三部経の中で最も短い阿弥陀経がふさわしいと思うからです。
竹筒の外側には、元禄6年の文字が記されていますが、修復時に新たにお経を納めるとは考えにくいので、既に制作時に納められていた経文を保護するために新調された、と私は考えています。

解体したら別の結果になるかもしれないけれど、今現在、私の中では資料的な興味は無くなりました。
2018年9月22日(土)
・ご本尊内部に墨書されている文字を紹介します。
   
 「施主僧阿」の文字が読み取れる  「延應元年」が読み取れる
・今年の施餓鬼会(8月16日)で、「ご本尊修復について」という題名の印刷物を配布しました。
この中に、「ご本尊は、蓮台寺が開山する前に造られた。」という仮説を書きましたが、どうやら、それが真実らしいことが分かりました。
今日、ご本尊の内部をファイバースコープで調べたら、背面に墨で書かれた「延應元年」(1239年)という文字が見つかったという報告があったからで、メールで送られてきた写真は、真教座像のものより遙かに鮮明でした。
もし、延應元年が制作年だとすると、ご本尊は蓮台寺開山の58年前に造られたことになり、仮説と合致します。
詳しい調査は神奈川県立歴史博物館で行うことが決まりました。
調査が終わり次第、写真などを公開します。
    ご本尊修復について              
         平成30年施餓鬼会資料

明治37年5月22日に本山遊行寺に提出した「寺院明細簿」には、次のように書かれています。
 本尊阿弥陀如来 御丈3尺5寸  恵心僧都御作
 観音勢至二大士 御丈1尺8寸  御作同断
 元祖上人      立像木仏   御自作
 二祖上人      立像木仏   御自作
これを私が最初に見たのは20年前で、この時は「とんでもない嘘が書いてある。」と思いました。嘘と思ったのは、「恵心僧都御作」と「御自作」となっていることです。
恵心僧都は蓮台寺開山の300年前の歴史上の高僧で、伝恵心僧都作と言われる絵画、彫刻は数多くあるのですが、美術史上は疑問視されているそうです。おそらく、その根拠となる証拠は何一つ見つかっていないからです。
それよりも、20年前に私が思ったのは、御本尊のような精巧な彫刻をいくら高僧と言えども自ら彫れるわけがないということでした。一遍上人と二祖上人の「御自作説」にも、同様の思いを持ちました。こういう嘘は、寺の権威を高めるために生まれたと考えられますが、一方、好意的な見方をすれば、これには何らかの根拠があったとみなすことも出来ます。
それが真教座像です。御自作ではないにしても、頭部内にご自身でお名号を印されたことで、制作に深く関わっていたことが御自作となって伝わったと考えられます。では、一遍像の方はどうかといえば、御自作で無いことは明らかですが、これこそご都合主義で、二祖像に合わせてしまったのでしょう。         
次に「恵心僧都作の御本尊」ですが、専門家の見立てでは、「江戸期のお姿」となっています。しかし私は、この説には、疑問を持っています。開山して間もなく、真教座像を造ったくらいの蓮台寺なので、その頃にはすでにレベルの高いご本尊があって、真教座像と同等かまたはそれ以上に檀徒に大切に護られてきたはずです。
蓮台寺は過去2回火災に遭っていますが、真教座像と一遍上人像は、無事檀徒に護られました。まして、ご本尊が護られないはずがありません。だから、普通に考えれば、ご本尊は開山当時のものであるはずです。では、なぜ「江戸期のお姿」と言われるのでしょうか。それは、江戸期に修復され、そのときに、時代の影響を受けた、というのが私の考えです。似たようなことが、今回の修復前の真教像にもありました。関東大震災後に修復されたお姿を見た専門家が、「制作期の下降を物語る」と判断した前例があるからです。
ということで、今のご本尊は、開山当時に、「恵心僧都作」と言われていた阿弥陀三尊を蓮台寺が購入したもので、それが明治時代の文書となっている、と私は考えています。
今回の下調査で、ご本尊の体内には竹筒が入っているのが確認されました。これが、ご本尊の由来を知る手がかりになるかもしれないことが、今回の修復の楽しみの1つです。

8月22日(水)午後5時にご本尊を搬出します。
その前の午後3時から、祭壇から畳の上に降ろしたご本尊を目の前にして説明会を開きます。
参加自由です。