他 阿 真 教 上 人
 蓮台寺の歴代和尚之墓所中央には「当山開基遊行二祖他阿大上人」と刻まれた大きな墓石があります。蓮台寺はこの他阿上人によって、永仁五年(一二九七年)に創建されました。
 他阿上人は、もとは浄土宗の僧侶で、真教上人と呼ばれておりました。真教上人が初めて一遍上人に会われたのは、一遍上人が今の大分県を遊行されていたときで、二人は夜の更けるのも忘れて仏道について語り合いました。そして、一遍上人のありがたくもすばらしい法話を聞かれた真教上人は、ついにはらはらと涙を流し、弟子に加えてくれるように頼みました。 このとき、一遍上人は三十八才、真教上人は四十一才でした。これ以後、真教上人は一遍上人の一番弟子として、おそばを離れることなくたゆみない遊行の旅を続けられたのです。
 真教上人が他阿真教上人と呼ばれるようになったのは、一遍上人から他阿弥陀仏という法号を授かったからです。ちなみに、一遍上人はご自身を自阿弥陀仏と号しておられました。
 一遍上人の遊行の旅は、十六年間続きました。その間に、非常に多くの人が一遍上人に帰依し、自然と一遍上人を聖と仰ぐ人々の集団が出来てきました。この集団の人々を時衆といっておりました。一遍上人は北海道を除く全国を、くまなく遊行され、各地で多くの人々が信者となりました。勧進目録という名簿に書かれた人数だけでも二十五万人を越えているということです。 このように、多くの人々を教化された一遍上人も、長い遊行の旅の疲れからか、一二八九年五十一才で遷化されました。
 一遍上人は生前から
       「わが化導は一期ばかりぞ」
 といわれて、自分の死後に教団をつくる意志をお持ちになりませんでした。この考えは、死の直前にご自分の書かれた書物を全て焼き捨ててしまうほどに強いものでした。
 したがって時衆の中には、一遍上人を失った悲しみの余り、後を追って入水自殺者が出るほどでした。他阿上人も、
      「一遍上人に先立たれたからには、自分も念仏して速やかに上人の後を追おう。」
と決意し、丹生山という山の中にある荒れ寺に籠もり、念仏しながら断食をして死を待っておりました。
 このとき、近隣の領主が、時衆がいるという噂を聞いて、念仏札を受けたいといってたずねてきました。他阿上人は
「自分は亡き一遍上人の後を追い、ただただ臨終を待っている身ですので、念仏札を与えることはできません。」
と言って固く断りました。
 ところが領主は
「是非、念仏札を与えてください。」
と言って引き下がりません。やむなく、一遍上人から拝受した札を領主に与えました。
 念仏札を受けた領主は非常に喜びましたが、更に懇願しました。
「極楽往生を保証する手形である念仏札を欲しいと望んでいるのは私だけではありません。もっと多くの人々が救済を望んでいます。是非、生き長らえてそういう人々を救って下さい。」
と。一遍上人に殉じて餓死することを決意していた他阿上人は、領主のこの言葉を聞いて迷いました。そして悩み抜いた末に、
「救済を待っている人々を遺していたずらに死ぬのは意味のないことである。一遍上人の教えは、体にしみついている。この教えを人々に伝え、生きるための指針を与えることこそが仏教者としての使命である。」
という考えに到りました。
こうして死の決意をひるがえした他阿上人は山を下り、残された時衆たちと共に時衆教団をつくり、一遍上人の教えを伝えるべく、遊行の旅を続けられたのです。
 そして、文保三年(一三一九年)の一月二十七日、八十三才で入滅されました。
 その後、時宗の法灯は歴代の遊行上人に引き継がれ、現在に至っています。そして歴代上人は皆、「他阿」を名乗られています。ちなみに、現在のお上人は他阿一雲上人です。
 なお、蓮台寺では毎年春のお彼岸のお中日に、開山忌法要を行い、他阿真教上人のご遺徳を偲ぶと共に、蓮台寺檀信徒各家のご先祖様のご回向を行っております。