銘文の「南無阿弥陀仏」は真教上人の直筆である
        
  上部銘文   
         下部銘文       
                                                                                            
他阿真教座像の頭部内には、上部に「南無阿弥陀仏」、下部に「文保(ぶんぽう)二年二月十三日 干時御歳(ときにおんとし) 八十二」の銘文がある。私は、この具体的な日付がいつを指すのかが、ずっと気になっていたが、最近この答えは単純明快であることに気が付いた。

 結論を先に言えば、2月13日は 上部の銘文「南無阿弥陀仏」が真教上人ご自身によって書かれた日 である。

 銘文の2月13日が製作時期と関係するならば、製作開始日か完成日以外には考えにくい。しかし、像内の銘文は完成してからでは書けないし、お像が完成する直前に、わざわざ遡って製作開始日を銘文にするのも不自然である。仮にそうだとしても、それならば銘文は別の文言(もんごん)になるはずだ。したがって、下部に書かれた銘文は、お像に対するものではなく、お名号(南無阿弥陀仏)に対して書かれたとすればすっきり説明できる。
 上の写真は真教座像の頭部内の銘文だが、上部と下部の筆跡の違いは明らかで、それぞれを別の人間が書いたと考えるべきだ。そして、もし上部のお名号を他阿上人以外の人、例えば弟子が書いたとするならば、下部を別人が書く理由はなくなり、筆跡は同じになるはずだ。だから、お名号は真教上人自身がお書きになり、日付は弟子が書いたとするのが自然で、だからこそ「御歳」と敬語を使ったと考えられる。
 下部が、いかにも書き慣れた滑らかな字体であるのに対し、上部のお名号は、しっかりと書かれてはいるものの、字体に乱れがある。この乱れは、真教上人の個性によるというよりも、晩年に中風を患われたことに起因する、と考えれば十分に納得できる。
 時宗教団には、帰命戒(きみょうかい)または知識帰命(ちしききみょう)と呼ばれる戒律がある。その基本は、知識すなわち遊行上人は阿弥陀仏の使者であり、同時に代理人であるから、知識には絶対的に服従しなければならない、と言うものである。
 この基本を定めたのは、教団設立者の真教上人で、とかく人間は弱いもので、入団を許された時衆といえども、当初の信仰心を保ち続けることは難しいので、阿弥陀仏の代理人の知識と直(じか)に約束することで、信仰心を長きにわたって保つ、事を目的に定めたといわれる。
 帰命戒は、現在の時宗教団にも形ばかりは引き継がれているが、教団設立当時は、今よりもはるかに重い実質を持っていたはずだ。しかしその時代には、誰でもが知識と直接会って帰命戒を受けられたわけではないので、その代案として造られたのが、阿弥陀仏の代理人(知識)の代理としてのお像で、そうすれば、直接知識に会わずとも、お像の前で帰命戒を受けることが出来る。この考えにたてば、お像は複数造ることが企画されたはずで、わが蓮台寺の真教座像も、そのうちの1つだったと考えられる。このお像は、右顔面の中風跡までもリアルに表現されているが、これは真教上人の代理であるからには、「うり二つ」でなければならない必然性があったからではないか。更に、そのような意味のお像であるには、姿形(すがたかたち)が似ているだけではダメで、真教上人ご自身の御名号が必要不可欠で、それが頭部内のお名号になった、というのが私の考えである。
 このように、真教座像は純粋かつ篤き信仰のために造られたのだが、お像を「文化財」としてしか見ることの出来なかった私には、どうしても「銘文」の意味が判らなかった。しかしやっと、「帰命戒を授けるための知識の代理」の考えにたどり着き、全ての疑問が氷解した。